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今川義元 ~「海道一の弓取り」の異名はダテじゃなかった件(その3)~vol6

今川義元 ~「海道一の弓取り」の異名はダテじゃなかった件(その3)~vol6
と題しましてお話していきます

しろまるです。 ( ノ゚Д゚)こんにちわ

甲斐(かい)の武田信虎と協力して、福島正成を筆頭とする勢力「良真派」を打ち破った今川義元。駿河国(するがのくに)遠江国(とおとうみのくに)を治める今川家の当主となるわけですが、こののち信虎の娘と結婚し、今川・武田家の婚姻同盟を結ぶところまでお話しましたね。

この今川・武田家の婚姻同盟を甲駿同盟といいます。(甲斐の「甲」と駿河の「駿」をとってこう呼ばれています。)これがのちに波乱を呼ぶことになります。

今川家は旧来の盟友として相模(さがみ)の国、北条家と同盟関係にありました。これを駿相同盟といいます。(駿河の「駿」と相模の「相」をとってこう呼ばれています。)
この甲駿同盟が面白くない人物がいます。北条家です。

それは何でか!武田家と北条家はたびたび戦争をしていた間柄だったのです。北条家の当主、北条氏綱(ほうじょううじつな)の逆鱗に触れてしまう義元。北条家に断りもなしに甲斐の武田と盟を結ぶことは、北条家にとっては同盟破棄と受け止められてしまいます。逆に言えば北条家にとっては、内乱で弱った今川家を叩く絶好の好機です。ただの侵略戦争でなく、裏切りに対する制裁という大義名分があるのですから。

これを機に北条軍は駿河国富士郡吉原に侵攻。内乱で完全にまとまりきってなかった家臣団は統制がとれず、今川軍は北条軍に対して適切な反撃ができず河東(現在の静岡県東部)を奪われてしまいます。義元は武田の援軍と連帯して領土奪還を試みますが、先の内乱で「良真派」に組した堀越氏・井伊氏といった遠江に基盤を置く反義元派の武将らが裏切ってしまうため、家臣の反乱と北条氏の侵攻との挟撃状態に陥り、河東の地は北条家に占領されたまま争いが長期化してしまいます。
追い討ちをかけるべく弱った今川家に対し、尾張の織田信秀が三河の国(みかわのくに)を進攻。三河の国(みかわのくに)とは当時松平広忠(徳川家康の父)が治めていた、尾張と駿河の間にある国です。松平広忠は今川家に援軍を乞いますが、義元は見返りとして竹千代(息子である徳川家康の幼名)を人質として差し出させます。しかし、竹千代は今川家へ送られる途中、戸田康光に奪われ、今川家と対立する織田家へ送られ、人質となってしまいます。竹千代はそのまま織田家で数年を過ごしました。そう、信長は少年期に家康と出会っていたのです。
義元はそれでも三河に援軍を送り、三河の諸侯軍と連合して決しますが、敗北してしまいます。

今川家にとって苦しい状況が続きますが、状況が変わってきます。北条家の当主氏綱が天文10年(1541年)に病に倒れ死去。北条家は北条氏康(ほうじょう うじやす)が家督を継ぎます。

義元は苦しい状況を打破するために、北条氏康と敵対する上野国(こうずけのくに)の上杉憲政(うえすぎのりまさ、上杉謙信を養子にした人物)と手を結び北条家を西と東から挟み撃ちにする策を立てました。これが功を奏し、河東と関東方面に戦力を分散させざるを得なくなる北条軍。武田の援軍を得て勢いづいた今川軍は河東の地を奪還するため進攻。関東方面では上杉軍が河越城を包囲し続け北条家は窮地に、どうにもならなくなった北条氏康は武田晴信(のちの武田信玄)に仲介を依頼し、今川家に河東を返還することを条件に和睦します。

西の脅威がなくなった北条軍は関東方面に戦力を集中、展開を打破し、包囲されていた河越城において逆転勝利をおさめます。その後今川と北条は、北条が関東方面への侵攻に集中していったことで徐々に緊張関係は和らいでいきました。

今川、武田、北条。争いが絶えないこの三国を大きく変えようとした人物がいました。義元の軍師雪斎です。雪斎の考えはこうでした。武田は北の越後の上杉家との争いに、北条家は東の関東方面に戦力を集めたいはず。西に憂いのある今川家。この三国の利害は一致するのではないか。

雪斎は主君今川義元に武田氏・北条氏との同盟の重要性を説き、自らが修行していた善徳寺にて三者を会談させるべく奔走し、実現させました。この会合で武田信玄と北条氏康をも説得。
当主である武田信玄、北条氏康、今川義元の娘がお互いの嫡子に嫁ぐ三国婚姻同盟として成立させたのです。
これを甲相駿三国同盟といいます。

甲相駿三国同盟の成立によって今川、武田、北条の三国は今までたがいに身を削り争ってましたが、武田は上杉と、北条は関東方面に戦力を集中させることができ、また自国が攻められたときには他の二国に援軍まで頼める状況になったのです。こうして武田と北条の脅威から自国を安定させた義元は、西の織田攻めに対し準備を始めました。

三回にわたって今川義元のお話をしました。世間では完全に信長の引き立て役になっていますが、政略、軍略ともに優れた人物だとしろまるは思いますが、皆さんはどうでしたでしょうか?

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はーい、しろまるです。 ( ノ゚Д゚)こんにちわ

今回は本編ではなくしろまるのお話です。

なんとなくブログを書き始めたしろまるですが、情報を配信するって言うのはこんなに大変なんだなというのをひしひしと実感し始めているところであります。

しろまるは歴史の専門家ではありません。書いている内容が史実にそぐわない部分もあるかとおもいます。というよりまちがいなくあるでしょう。それについてのコメントも24時間受け付けておりますので!書いていただけたらお返事します(お手柔らかに(笑))論争はしませんよ、史実はこう!ソースはこれ!そういうのはしません(笑)
そういうのは専門家の人に任せます。

しろまるは、戦国時代の歴史や、逸話などのことが少しでも多くの人に知ってもらえればと思い書いております。嘘八百はだめですが、伝説的な話とか逸話とか面白いのでそういった内容にも触れていくとおもいます。
例えば足利義輝がめっちゃ強かった話とか、兵力差が何倍だったけど勝ったとかそういう領域の話です。

しろまる的には数百年前の歴史の真実なんて、当時かかわった人にしか分からなくて、戦の兵の数とか勝ったほうの好きに書き換えられてまったくあてにならん!と思ってますので!そのあやふやな部分をみんなでいろいろな方向から多角的に解釈して、現代で認識される歴史が作られていくと思っています。

こうだと思っていたのは実は違ったのか!そういう解釈に出会ったときが楽しいです。
例えば、斉藤家の義龍謀反が、織田家の力をそぐために今川義元の調略により誘発されておきていたとしたら!とかです。

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〈 vol.5 今川義元 ~「海道一の弓取り」の異名はダテじゃなかった件(その2)~ 〉

はーい、しろまるです。 ( ノ゚Д゚)こんにちわ

〈 vol.5 今川義元 ~「海道一の弓取り」の異名はダテじゃなかった件(その2)~ 〉

さて、前回からの続き今川家の家督争い、今川義元がどのように立ち回って駿河国(するがのくに)遠江国(とおとうみのくに)をまとめていったのかお話します。

大永六年(1526)父である氏親がなくなると継承順位の高い長兄・氏輝(うじてる)が家督を継ぎます。この氏輝が幼少なのをいいことに実権を握っていたの人物がいました。氏親の側室の一族、「福島氏」です。高天神城の城主、福島正成を筆頭とする勢力です。

十年後の天文五年(1536)氏輝が二十四歳で急死し、義元に家督相続権が巡ってきます。氏輝が当主の間に実権を握っていた福島正成は、いまこそ福島家の血筋のものを当主にしようと義元の父、氏親の側室の子、良真(よしざね)を推し、朝比奈(あさひな)氏・篠原(しのはら)氏・斎藤(さいとう)氏といった有力豪族らと共に良真派として義元派と対立します。

義元は正室の子、良真は義元よりも年上ではありますが側室の子。母である寿桂尼は当然正室の子である義元を推し、雪斎も義元のほうが見込みがあるとし義元派に、そのほかの義元派は岡部(おかべ)氏・瀬名(せな)氏・孕石(はらみいし)氏といった有力豪族でありました。こうして今川家中は真っ二つに割れてしまいます。駿河に戻っていたきた義元に、幼少からの雪斎との修行の成果の見せどころがとうとうやってきました。

寿桂尼は駿府館に福島正成らを招いて説得を試みますが失敗に終り、正成ら良真派は花倉城を拠点に兵を挙げ、方上城を占拠、駿府館を襲撃。寿桂尼は何とか久能山へ逃れました。
幼少から勉学に励み、知識はある義元。しかし経験がありません。このとき義元をサポートするのが雪斎です。

雪斎が出したヒントは、「敵の敵は味方」

義元は考えます。敵の敵は味方。福島正成は氏親の生前、命令を受け駿河の北の隣国を治める甲斐(かい)の領主、武田信虎の領土に何度も攻め込んでいましたが信虎はそのたびに正成を撃退していました。義元はこのことに目をつけ信虎に使者を送り援軍を頼みます。正成のことを目の敵にしていた信虎は喜んで援軍を送ってきました。義元の読みは大当たりです。また東の隣国の相模(さがみ)の国、北条家も義元派に味方をしたと噂を流し、信虎が実際に援軍を出したことで、義元派の兵は活気付き、方上城を義元方の勇将・岡部親綱(おかべちかつな)が奪い返すと、良真派は総崩れとなりました。

孫子で学んだ究極論、「戦わずして勝つ」、戦の前に戦略で優位に立ち、戦での自軍の損害は最小限に抑える。「戦わずして勝つ」といっても実際には「なるべく戦わずして勝つ」ですね。
今回の場合は、信虎を味方にして兵力を増強。士気の上がる義元派、下がる良真派。このとき単独で良真派と戦っていたら、負けないにしても被害が大きくなれば家督争いどころでなく、隣国の甲斐の国の信虎に攻め込む隙を与えてしまうところでしたが、その信虎に対して今後の友好関係までも作ってしまったまさに一石二鳥にも三鳥にもなる戦略でした。

のちの天文六年(1537)、義元は武田信虎の娘と結婚し、今川・武田家の婚姻同盟を結びます。信長が帰蝶と結婚し斉藤家と同盟を組んだのと同じ関係です。戦国時代だけでなく娘や、養子などと結婚させ親戚関係を結ぶことで同盟を組むことがよくありました。表向きは結婚でも、人質のような間柄の婚姻同盟もあります。娘や息子を敵国に嫁がせるわけですからね。七歳で結婚とか五歳で家督を継ぐとか昔の名家の子供はほんとに大変だ・・・。

次回はとうとう桶狭間の戦い!といきたいですが、もう少し今川家のお話です(笑)この今川・武田家の婚姻同盟がまたちょっと波乱を呼ぶのです。

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〈 vol.4 今川義元 ~「海道一の弓取り」の異名はダテじゃなかった件(その1)~ 〉

はーい、しろまるです。 ( ノ゚Д゚)こんにちわ

〈 vol.4 今川義元 ~「海道一の弓取り」の異名はダテじゃなかった件(その1)~ 〉
と題しましてお話していきます。海道一とは東海道一ということ、弓取りというのは弓使いが上手いとかでなく、武将(武家)という意味。

桶狭間の戦いで織田信長に敗れて討ち死にしてしまったため、世間では完全に信長の引き立て役になっていますが軍事面、領国の経営面、外交面においても優れた人物なのです。義元の本拠は駿河国(するがのくに)遠江国(とおとうみのくに)。現在の静岡県と思っていただければわかりやすいかと思います。「尾張の国(愛知)、織田家」の北に「美濃の国(岐阜)、斉藤家」、東に「駿河、遠江(静岡)の国、今川家」vol1.から読んでくださっている方は大名の勢力図がなんとなく位置関係が想像できるようになって来たと思います。

義元は正室の子であったが、三男?五男?諸説あるようですが家督継承権はなく、幼くして寺に入れられた。善徳寺という寺である。法名は梅岳承芳(ばいがくしょうほう)この寺で義元が教育を受けたのは「太原崇孚(たいげんすうふ)。号は雪斎(せっさい)」太原雪斎という人物である。彼はのちに義元の軍師として信頼され政治・軍事両方において重用される事となる。

もともと雪斎は駿河の善得寺、後に京都の建仁寺で修行をしていた。秀才としてこの噂を聞いた主君の今川氏親(義元の父)から帰国して今川氏に仕えるよう要請され、義元の教育係として任命される。
義元は家督継承権がなく善徳寺に入れられたため、雪斎から学ぶ時間がとても長かったため多くの知識・経験を積むことができたのです。

雪斎は義元の飲み込みが早かったため、『難太平記』・『今川状』・『今川大双紙』など今川家に代々伝わる書物、『論語』・『孟子』・『庭訓往来』といった教育書。『古事記』・『平家物語』・『太平記』といった歴史物、『古今和歌集』・『新古今和歌集』といった歌集。『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』といった系譜集。数々の書物を読ませました。

雪斎が義元にとりわけ力を入れて教授したのが軍学の知識。みなさん「孫子の兵法」というのはご存知でしょうか?
中国春秋時代の軍学者・孫武(そんぶ)が記したとされる『孫子』最も有名な軍学書です。少し孫子の兵法の話しもしましょうか。

計篇 〈勝算はどちらにあるか〉
作戦篇(用兵とはスピードである)
謀攻篇(戦わずして勝つ)
形篇 (必勝の形をつくる)
勢篇 (全軍の勢いを操る)
虚実篇(無勢で多勢に勝つ方法)
軍争篇(戦場にいかに先着するか)
九変篇(指揮官いかにあるべきか)
行軍篇〈敵情を見抜く〉
地形篇〈六種の地形をどう利用するか〉
九地篇〈脱兎のごとく進攻せよ〉
用間篇〈スパイこそ最重要員〉
火攻篇〈軽々しく戦争を起こすな〉 からなる兵法書です。興味のある方は孫子の兵法で検索するとたくさん出てくるので読んでみるといいと思います。読むだけで楽しいです。

孫子の兵法でとても有名な文面がありますね。

「彼を知り己を知れば、百戦あやうからず。彼を知らず己を知れば、一勝一敗す。彼知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず敗れる。」

「戦わずして勝つ。」(これはもう究極論ですね。戦わないのに勝つんですから))

「兵は軌道なり」(JOJOの奇妙な冒険でも台詞でてきますね)

などが有名です。一番有名なのはやっぱりこれ!「風林火山」武田信玄が軍旗などに掲げた風林火山はとても有名だと思います。これも孫子から取ったものです。

疾きこと「風」の如く、徐なること「林」の如く、侵掠すること「火」の如く、動かざること「山」の如くこの「○」の四文字を取ったのが風林火山です。

実は続きがあるんですよ!知ってましたか?( ̄ー ̄)ニヤリ

知り難きことは陰の如く、動くことは雷の震うが如くにして、郷を掠むるには衆を分かち郷うところを指すに衆を分かち、地を廓むるには利を分かち、権を懸けて而して動く。迂直の計を先知する者は此れ軍争の法なり。ちょっと難しいですね(;´Д`)

疾風のように迅速に進撃し、林のように静まり返って待機し、火が燃え広がるように急激に侵攻し、山のように居座り、暗闇のように実態を隠し、雷鳴のように突然動きだし、偽りの進路を敵に指示するには部隊を分けて進ませ、占領地を拡大するときは要地を分守させ、権謀をめぐらせつつ機動せよ。

【其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山、難知如陰、動如雷震、掠郷分衆、廓地分利、懸権而動】

こういった知識を雪斎は義元に教え込みます。後に雪斎と義元は京の五山(建仁寺、妙心寺)にのぼり研鑽をつみます。こうして修行の時がたつうちに天文五年(1536)、義元の家督を相続するはずだった長兄・氏輝が二十四歳で急死。こうなると信長の話を読んでくれたあなたは今川家がどうなるかわかりますね?家督相続争いが始まるのです。

義元が小さいころから雪斎から学んできたことが、とうとう役に立つ日が来たのです。さて、今川家の家督争いがどう展開していくのか、それは次回のお楽しみで。

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〈 vol.3 織田信長 ~尾張の平定(その3)家督争い~ 〉

はーい、しろまるです。 ( ノ゚Д゚)こんにちわ

〈 vol.3 織田信長 ~尾張の平定(その3)の家督争い~ 〉
と題しましてお話していきます。

さて、信長派と信行派に分かれてしまった織田家。この両派の戦を稲生の戦い(いのうのたたかい)といいます。この戦、斉藤道三の死を好機と見た信行派でありますが、もうひとつ信長が家督を継ぐのにふさわしくないという名分にした理由があります。それは平手政秀、信長の教育係であった爺の死です。

平手政秀の死は信長との不和説と諌死説(死んで目上の人をいさめること。また,死ぬ覚悟で いさめること。)があります。

不和説は政秀の長男・五郎右衛門が所持していた駿馬を信長が欲しがりくれと所望したところきっぱり断られたため又、五郎右衛門は信行派に加担したため政秀は責任を取り自刃したという説。

諌死説は脚色するとこんな感じのお話です。

「爺はずっと信長様のおもり役をしてまいりましたが今後信長様は織田家を背負っていくお方、今後は家中の者の意見に耳を傾け、当主のあるべく振る舞いをしていただきたい。爺の最後の言葉、爺の命と引き換えにお聞き入れくだされ」と自刃(腹を切る)下という説です。

信長公記(しんちょうこうき)は不和説で、信長記(しんちょうき)では諌死説で書かれており、信長公記のあとに信長記が書かれたそうで、より小説的に書かれているそうです。両方「太田牛一」という人が書いており、信長記は信長公記はをもとにして牛一の晩年期に書いたものです。

しろまる的には諌死説を信じたいですね。のちに信長は政秀の死後に政秀寺を建立し菩提を弔っているので爺への思い入れも感じますし。

さて、稲生の戦い(いのうのたたかい)ですが展開は!

清洲城が拠点の信長軍。清洲から南東の於多井川を越えたところで、末盛城が拠点の東から来た柴田軍と、那古野城、南から来た林軍との戦いが始まる。

信長方の手勢わずか700人たらず(佐久間盛重・佐久間信盛・前田利家・丹羽長秀・森可成・織田信房ら)に対し信行方は柴田勝家が1000人、林秀貞が700人の合計1,700人を擁していた。700対1700ですね。信長はじめからすごい劣勢で
す。でも戦は兵力じゃね~、勝機だ。是非に及ばず!信長もたぶんこう思ったはず。

正午頃、信長軍の約半数が柴田軍に攻めかかったものの、信行派は兵力差に加えてのちに鬼柴田と恐れられるほど戦上手だった柴田勝家の活躍で信長方は佐々孫介(佐々成政の兄で小豆坂七本槍の一人)ら主だった家臣が次々に討たれるなど苦戦を強いられ、柴田軍が信長の本陣に迫った時には、信長の前に織田勝左衛門・織田信房・森可成と鑓持ちの40人ばかりしかいないという危機に立たされた。

しかし織田信房・森可成の両名が前線に立って戦い、清洲衆の土田の大原という武将を返り討ちにするなど奮戦した。そこで信長が一喝すると、元々織田の家臣で あった柴田軍は殆どが震え上がって逃走。信長の声はとてつもなく大きかったそうで武将が討ち取られるとびびっちゃったんですね。

勢いを取り戻した信長軍は、次いで林軍に攻めかかった。戦いの中、林美作守が黒田半平と切り結んで息が切れたところに信長が打ちかかり、槍で突き伏せて討ち取ったのを始めとして、信行方の主だった武将を含む450人余りを討ち取り
信行派は総崩れに。

信行方は末盛城・那古野城に篭城。それに対して、信長は両城の城下を焼き払った。信行は、信長と信行の母である土田御前の取りなしにより助命され、清洲城で信長と対面して許された。また、信行方の有力武将であった林秀貞と柴田勝家、津々木蔵人も信長に謝罪、忠誠を誓いました。

同じ年信行は再度謀反を企みます、これを知った信長はかつて信行派であった勝家をつかい、信長様が病になったので見舞いに来るようにいい、清洲城に誘い出し河尻秀隆という人物が信行を殺害。こうして信長に逆らうものは尾張には
いなくなり、信長を当主として織田家がまとまりはじめるのです。

尾張平定のお話は今回でおしまいです。次回は桶狭間の戦い!といきたいところですが、桶狭間で負けてしまう今川義元の話をしましょう。

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プロフィール

しろまる

Author:しろまる
いつも読んでいただき有難うございます。

戦国時代の話が大好きなだけで「~漢魂~」を始めました。

戦国時代について知識0の方にも分かり易く書きました。楽しみながら読んでいただけたらと幸甚です。

是非「vol.1」織田信長 ~尾張の平定から読んでください。流れがつかみやすいと思います。

相互リンク、ブロトモ申請、受け付けてますのでよろしくお願いします。

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